占星術

【占星術の起源】文明発祥の地メソポタミアでは紀元前2000年頃に「12星座」が考え出され、太陽暦・太陰暦の礎として使われていた!

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今回は、占星術の起源について考察していきます。

占星術の発祥地は、紀元前3000年頃からメソポタミアに栄えた世界最古の古代文明であり、シュメール人による都市国家が成立した地域です。

紀元前2000年頃からは、アッシリア文明や、ハムラビ法典で知られるバビロニア文明が栄え、楔形文字・灌漑(かんがい・農地への水路の供給)・太陽暦・太陰暦・占星術・六十進法・法典・統一度量衡などが発達しました。

神秘的な占星術の歴史は、人類最古の文明と共に始まっていた!

占星術の発祥地は、チグリス・ユーフラテス二大河流域に広がるメソポタミア地方と言われています。しかし、占星術の起源は非常に古く、いつごろから存在したのか明確なことは分かっていません。

ただ紀元前2000年頃のバビロニアではすでに「黄道12宮」が考え出されていて、牡羊座を全12星座の首として第1位に定めていましたし、エジプトでも、古都テーベに近いデンデラー神殿の遺跡から、紀元前1700年頃の占星神話に基づいて制作したものと思われる「円形天文図」が発見されています。

現在知られている占星術についての最古の記録は、4世紀中頃、アッシリアの首都ニネヴェの遺跡を発掘した時に見つかったアガデ王朝サルゴン一世(前2600年頃)治世下の模形文字による粘土版の写本で、アシシュルバニパル王(前668~626年)の命により広く大領土から集められた「クュンジク蒐集(しゅうしゅう)」です。

現存する最古のホロスコープは、紀元前2767年7月16日、ヘリオポリス(太陽神殿)で作成されたものと言われています。

農作物の不作・豊作を左右する暦の存在が占星術の普及を後押ししていた

占星術の発達は、暦の成立と切り離して考えることができません。当時の暦は「農事暦」で、大河流域に住みついて農耕文明を興した古代人にとって、種蒔きや収穫の季節を知ることが何よりも重要だったからです。

古代エジプトは太陽暦を使い、バビロニアでは太陰暦が使われていた

古代エジプトでは、初め1年を、12ヶ月、1ヶ月を30日とし、それに5日間の祭日を加えた365日の「太陽暦」を使っていました。

しかし、正確な恒星年の1年は365日と4分の1日であるため、長い間にはどうしても暦と季節にずれが生じてしまいます。

そこで、これを補うために「ソティス暦」を併用しました。すなわち、ナイル河の増水を告げるシリウス星が太陽とともに東天に出現するのを見て夏至を知り、1年の長さを決めたのです。

これに対して、バビロニアでは朔望月(さくぼうげつ)をもとにした「太陰暦」が使われていました。

朔望月とは、月の満ち欠けの1周期のことで、朔(新月)から次の朔、あるいは望(満月)から次の望までの期間を言います。

朔とは太陽と月の合(太陽と月の角度が0度)、望は太陽と月の衝(太陽と月の角度が180度)の時である。

1ヶ月の始まりを細い新月が日没の空にかかる時として、そこから日を数えて1か月の長さを決めていたのです。

ところが、太陰暦の1か月は29日または30日で、1年では354日となり、本当の1年の365日とは11日も差があります。

どうしても1年を正確に計る必要が出てきたのです。

そこで、ある特殊な星が日の出時に出現するのを見て年初とし、1年の長さを決めることにしました。

この星は、現代の研究によると、馭者座(ぎょしゃざ)の1等星カペラ、後には牡羊座のアルファ星ハマルで、春分の頃の東空に太陽に先立って姿を現し、バビロニアの年始「春分正月」を定めたといわれます。

春分点は、黄道360度のスタート地点・牡羊座に太陽が入る1年始まりの日

現代の占星術が、夏至でも冬至でもなく、ましてカレンダーの1月1日でもなく、太陽が春分点に到達する時、すなわち太陽が白羊宮(はくようきゅう・牡羊座)に入る時を1年の始まりと考えているのは、遠くバビロニアの暦法の流れを汲んでいるためです。

メソポタミアの南部、シアヌルの地に興隆した古代バビロニア帝国は、初めシュメールとアッカドとに分かれていましたが、アッシリアとの抗争を経た後、前2000年紀にハンムラビ王によって統一されました。

バビロニア帝国は前7世紀、ネブカドネザル王朝の時に栄華の最高潮に達し、前539年にペルシアのクセルクセス王によって征服されるまで、およそ2000年の興亡の歴史をたどりました。

バビロニア帝国で天文観測に従事していたのは、カルデア人と呼ばれる哲学者の集団でした。

カルデア人は明らかにバビロニア人とは別種の民族で、その系統はバビロニア人よりも古く、その知的水準はバビロニア人よりも高かったようです。

彼らは「神聖科学の管理人」と呼ばれ、占星術や天文観測技術だけでなく、医学・薬学・数学・言語学・建築学などの知識の所有者として、バビロニアの知識階級、あるいは聖職者階級を形成していたのです。

天文学と数学が高い知的価値を有するのはインドもバビロニアも一緒だった

カルデア人が擁していた諸科学のうち、特に価値を認め得るのは、天文学と数学です。

ギリシアの哲学者シンプリキオスによると、カルデア人はアレクサンドロスの時代に、1903年に渡る天体の観測記録を残していたと述べています。

カルデア人は月の1日の平均運動速度を13分10度35秒と定め、また朔望月が29日12時間44分毎に起こることをすでに算出していました。

また、恒星の年周運動を観測して春分点を知り、1年の長さが365日6時間11分であることを確認しています。

太陽や月や惑星が、常に天の一定の軌道を通ることに注目して、太陽の通り道である「黄道」(こうどう)を考え出し、「黄道12宮」を設定したことも、カルデア人の偉大な功績です。

しかし、カルデア人の知性の本当の凄さは、確な天文学知識や膨大な観測記録を所持していたことよりも、天で起こる現象を地上の諸現象に関連付けて考え、そこに体系付けられた学術理論を樹立したにあります。

そして、それらの学術理論にはカルデア人が深く堅持していた宗教的原理が横たわっていました。

古代バビロニアの思想は、人間の営みと星々の運行との間に厳として存在する因果律を認めていたのです。

惑星は神の属性を持ち、天的な力と人との仲介者となるものと考えられていました。

古代人にとって、一定不変の秩序のもとに星を動かす神の意志を知ることが、より良く生きることでした。

占星術は、運命の神秘と生命の変転の謎に探求の範囲を広げることによって、単なる気象天文学の域を超えていたのです。

けれども、古代占星術は常に国家を中心命題としていたため、当時の占星術は、もっぱら国家の運命や農耕の時期を知るために利用されるという限定がありました。

個人のための占星術が登場するのは、さらに後世、エジプトのアレキサンドリア期からになります。

歳差運動による春分点のズレがインド占星術と西洋占星術の違いを生み出す

インド占星術と西洋占星術に共通している12星座の天空分割が使われ始めたのは、紀元前500年前後のメソポタミアとされています。

地球から見た太陽の軌道である黄道を、木星が一周するのに約12年かかります。

そのため、太陽の軌道である黄道をを12等分したのが12星座の始まりなのです。

木星は、幸運・発展・拡大の象意の惑星でもあり、12年サイクルが中国に伝わったことで十二支となったという説もあります。

12星座には、2通りの分割方式が存在しています。

1.黄道近くに見える恒星を目印とした星座を分割する「サイデリアル12星座」

2.春分点の後退が発見され、春分点を牡羊座の0度とする「トロピカル12星座」

春分点の後退

地球の自転軸が駒の首振り運動のような回転をしているために、春分点・秋分点が黄道に沿って、少しずつ西向きに移動しています。これを歳差運動といい、その周期は約2万5800年で、1つの星座を2150年かけて移動することになります。

占星術の世界で、魚座の時代から水瓶座の時代へ入ったと言われるのは、春分点が黄道12星座のどの位置を移動しているかを根拠としています。その移動する春分点と、サイデリアル方式で基点とする恒星との差をアヤナムシャと呼んでいます。

アヤナムシャは、72年に1度ずつ広がっていきます。

2000年に入り、インド政府公認によるアヤナムシャによると、23度51分となっています。

そのため、西洋占星術の太陽が射手座の20.51度にある場合、

インド占星術では「20.51度−23度51分=−3度」

差し引く形となり、太陽は射手座ではなくその前の蠍座17.00度の位置に存在することになります。

このように、西洋占星術とインド占星術では、惑星や感受点が23度51分ずれて配置されているのです。

性格形成や情緒的態度に関する特徴としては、西洋占星術の方が当てはまっている場合が確実に多いです。

ただし、太陽系には7つの惑星が存在しているため、太陽と水星は28以内に常にあり、太陽と金星は45度以上離れないので、太陽以外の惑星が特定の意味を持つハウスの中で代替惑星として機能しているケースが頻繁に見られます。

「トロピカル12星座」は、西ヨーロッパなどの北半球の中緯度地帯において季節との関連性が良く、ヘレニズム文化を中心としてギリシヤ占星術として発達しました。

メソポタミア・ササン朝ペルシア・ビザンツ帝国を経て西洋占星術が誕生

ギリシャ占星術を受け継いだササン朝ペルシャ王国では、「トロピカル12星座」を用いた占星術が使われ、アセンダントを第1室の起点、MCを第10室の起点とする各ハウス、各アスペクトが考案されていきます。

651年にササン朝を滅ぼしたアラブ系イスラム教徒も、ササン朝ペルシャの占星術を継承しました。

この占星術は、ギリシャ占星術ともインド占星術とも異なる占星術として発展を遂げました。

この占星術はアラビア占星術と呼ばれています。

西洋ではルネッサンス(文芸復興)の時代に、東方貿易や滅亡したビザンツ帝国から流入した文化人や学者によって、間接的にアラビアからヨーロッパに占星術がもたらされ、現在の西洋占星術が流行するきっかけとなったのです。

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